「操体」…「そうたい」と読みます。体操ではありません。とりあえずどのようなモノか、知っている方もおられるでしょうが、知らない方にとっては操体を体系された故橋本敬三医師の残された数冊の著書の内「からだの設計にミスはない」(たにぐち書店)を是非読んでいただきたいと思います。

 さて、操体は「操体法」として全国に広まっておりますが、「法」と付いているせいでしょうか、「手技療法的テクニック」と誤解されているところが多大にあります。ちなみに操体法の法は「法則」の法です。この世は絶妙なバランス現象によって成り、そして生命はそのバランスの法則の下に生かされており、人間も例外ではないということを述べています。その観点から医師である橋本先生は疾患の根源に身体の「歪-わい-」を見出し、そして「歪-わい-」の現象の発生を調べていくうちに得られたのが「息」「食」「動」「想」という「誰も肩代わりしてくれない4つの自己責任生活行為」のバランスの在り方でした 。
また、さらに人は「環境」との対外的バランス関係もあり、そこから「息・食・動・想+環境」という生体における総合的なバランスの在り方を示唆し、医学会に唱えていきました。尚、操体でいう「歪-わい-」の現象は整体やカイロプラクティック等でいうところの「歪み-ユガミ-」とは意味を異にします。操体では「歪み-ヒズミ-」と言い、そのヒズミをけっして悪いモノという意味では用いません。操体では「不自然の自然」という言葉があります。ヒズミもまたバランス現象の姿であり、ヒズませることによって身体のバランスを保っていることも認めています。よって不自然な身体の形態であっても「体がまにあっていればそれはそれでいい」と云う思想を持っています。ただその逆に「体がまにあっていない」人がいるのなら、そのヒズミを正す、すなわち「歪体-わいたい-」を「正体-せいたい-」に戻していく必要があるということになります。そしてその戻す術(すべ)が名称として「操体法」となりました。
さらに言えば操体では筋・骨格系にのみ考えることをしません。先の4つの自己責任生活行為+環境、それらのどこがバランス感覚を無くしているのかを考えます。すなわち、間違った息づかいなのか、偏った飲食なのか、人体構造に反した動きをしているのか、後ろ向きな想い方をしているのか、環境との適応ができていないのか、等々となり、実際には息・食・動・想+環境のそれぞれが1、2冊の本になるほど大きなテーマとなります。さらに4つの自己責任生活行為はどれか1つが崩れると他も崩れ、逆に1つが正されると他も正されていくという「同時相関相補性」の関係にあり、我々が個人として一生をまにあう体で生きることとはまさに自己の責任の下においてのみ成され、己自身でしっかりと認識して生きていくことが大切であるということになります。ただ眉間にシワを寄せるような感じでいちいち意識して行為を成せということではありません。人間がヒトという動物である以上、そこには「原始感覚」が備わっています。ではその原始感覚とは何か、それは「快」を満たす行為となります。「命とは快に満たされている現象」であり、よって「快感覚の聞き分け」をもって生きていけば自然の摂理に則した生き方ができ、一生をまにあう体で終えることができることとなります。

 以上、なんとも「観念的」な内容になりましたが、操体とはそういう世界なのです。操体は別名「実践哲学」と言われます。その哲理は深遠なものがありますが、臨床で行われる「操法-そうほう-」はその哲理に則したひとつの身体をとおした現象でしかありません。快適感覚を通した「動き」、または「触れ」には定められた方法(テクニック)は無く、操者(操体では施術者を操者と言います)が主役とならず、本人(操体では患者の立場を本人と言います)自身が快適感覚を味わって心身を取り戻していきます。操者はあくまでも本人の快適感覚を高める補助者でしかありません。ただし日頃の経験により多少はヒトという動物の快適な動き、または整復の動きの方向を知っているだけです。よって操者が治したという発想を持ち得ません。「自療=自分自身で正し、戻す」世界が操体です。是非一度操体の世界を覗いてみてください。

操体あおき癒養院 院長
青木 武

 

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