通背拳は中国北方に伝えられてきた、極めて実戦的な伝統武術のひとつである。
河北省を中心として、広い地域に流布してきた拳法であるため、多くの分派を生み出している。
「通背」とは、“腰背から生じた力を肢体に通じさせる”ことをいう。「通背拳」の技術の中核をなす「通背」動作は、あたかも肩や腕が遠くに伸びるように見える。これは「通背拳」が、猿が獲物を取ろうとしたり、敵を攻撃しようとするときの動作から作られたと言われる所以である。
体全体の動きやフットワークも、あたかも猿の如く軽快に、敏速に行う拳法である。
通背拳の創始者は、さまぎまな説があり、定かではない。伝説によれば、清の時代の嘉慶年間から咸豊年間に陳峻山に住む道師、韓道長が創始したものと言われている。また、戦国時代の白猿創始説、孫びん創始説などがあるが、いずれも伝説の域を出るものではなく、確証はない。
しかし、多くの考証家の研究により、明代のいくつかの書にはすでに「猴拳」の名が記載されていることが明らかになっている。おそらく、古来から伝承のあった通背拳(もしくは猴拳)を、その時代時代に傑出した天才が現われ、新しく体系を秩序だて、それがまた新しい門派となって後世に伝承されていったのであろう。
修剣痴は他の武術門派にも知れ渡る中国武壇の著名人で「燕北大侠」と呼ばれていた。修の大連での武術活動は三十二年余りで、1958年に大連において病で世を去った。
修は“通背拳”に精通し、「一代大師」と讃えられた。特に剣術を好み、自ら“剣痴”と名乗った。
旧中国で修の名声は知れ渡り、湖南省の何建部に武術試験の審判として招かれ、その後部隊に留まり武術教官として数年を過ごした。修は通背拳の実戦技法を兵士に訓練し、良い成果を挙げた。1940年頃、大連に戻り、西南区に武館を作り、多くの弟子を教えた。正に「桃李満天下(門下に学生が満ちる)」であった。「通背大師」干少亭、「南国不老松」沙国政、日本兵と勇敢に闘った女傑王侠林、北京体育学院武術部副部長故成伝鋭(写真下)等は皆、修の高弟である。